ほうき星を追いかけて

星のこととか、日々感じたこととか、いろいろ。

捉え方の違いって面白いね(当たり前)

こんばんは、わかばです。

先週の獅子座流星群、皆さまは堪能されましたか?私は夢の中にいたので楽しめませんでした。その代わりにとても煌びやかな迦陵頻伽のお姿を拝見いたしましたよ。寝る前の『紅楼夢(曹雪芹)』が効いたのでしょう。



夢占いについてはいささか首を傾げている身ではありますが(何せ寝る度に夢を見るタイプなので)、今回ばかりは縁起のいい夢を見させてもらったなと目に見えぬ存在に感謝した次第です。

目に見えぬ存在ーー。どこぞの神、ご先祖様、潜在意識、あるいはこのろくでもない脳みその一部。読み手によって受け取り方が変わりますね。どうぞお好きなように解釈して下さい。ちなみに、私はどれも同じようなものだと思っています。「天国は頭の中にある」と、『虐殺器官伊藤計劃)』の誰かさんもおっしゃっていた通り。


(高校生の頃、中間試験の勉強をサボって読んでいた本です。懐かしい)

さて、立て続けに本を紹介いたしましたがどうでしょう。皆様は読書はお好きでしょうか。

本好きにも色んなタイプがいます。かくいう私は「ただの趣味」タイプ。物語に高尚なものは求めていません。面白いか、面白くないか。次点で世界観が確立されているか。娯楽として消費しているのがたまたま書物だったというだけで、例えば教養のための読書はあまりしないです。勉強で本を読む時も読み方をはっきりと分けています。

まあ、そんなジャンキーな読書観、とでもいいましょうかーー。を持っていますから、ある方に「本ばっかり読んでいても本当の学びは得られないよ。頭でっかちになっちゃうよ」余計なお世話、忠告を頂いた時に疑問を感じたんですね。

「学び?別に何かを求めて読書をしているわけじゃないんだけど」と。

そりゃあね、何かの折に読んだ一節が後になって役に立ったということはありますよ。先ほど述べたように、勉強のために本を開くこともある。知的好奇心を満たすために利用することもあるでしょう。

だけど、基本的に私にとって本は娯楽なんです。何かを得なくては、という義務感から読むものではない。もしそうだったら、とっくに読書なんてやめているでしょうね。義務や強制によって得られる楽しさなんてたかが知れていますから。

草抜き前の畑と猫背

で、なぜたわいもない一言にくどくど言っているのかというと、その方、ご自身のことを「本の虫」と称されていたからなんですよ。本の虫、つまり無類の読書好きというわけですね。そのような方が、本を読んでいる人間に頭でっかちとは……。

うん、納得できねーわ。

読書嫌いに言われたのなら理解はできるんですけどね。そういう方にとって、本は難解さの象徴だったりしますから。でも、あなたは違うでしょう。本にまとわりつく「賢い」というイメージが実は幻想で、仕入れた情報をどう利用するかは受け手によって左右される。そのことをご存知のはずなのでは?

なのに、何であんなことを言ったのだろう。そう考えるうちに、一つの結論に行き当たりまして。きっとこの方は、「読書=知識を得る手段」として捉えているのだろうなと。

趣味として好きならば、自分と同じ在り方を否定するはずがありませんからね。ただの想像ですが、もしこの方に「本のどこが好き? 」と聞いたら速攻で「学びが得られるところ」と答えるのではないでしょうか。でなければ、本当の学びは得られない云々は言わないと思うんです。何を持って本当の学びとするかなんて、私の勝手ですし。

きっと、自分がこうだったから相手もそうだろう、という思いこみから自然に出た言葉なのでしょう。それが読書をただの娯楽だと捉えている私には引っかかった。

同じ読書好きでも、捉え方が違えば本に向かう姿勢も違う。人の数だけ違った読み方がある。私たちはついついそれを忘れてしまうから、争いなんてものが起こるのでしょうね。

……と、当たり前なことに気付いた今日この頃です。もうすぐ射手座新月ですね。




鋭い方ならお気づきになったでしょうが、「でも、あなたは違うでしょう~ご存知のはずなのでは? 」の文。これもまた、私自身の捉え方から出た勝手な思い込みです。我々は憶測から火花を散らすことができる、器用ながらも歪んだ生物なのです。

いや、ほんと。人間関係がこじれるのって、互いに対する誤解のせいだと思うんですよ。