ほうき星を追いかけて

星のこととか、日々感じたこととか、いろいろ。

違う年代の人と話すのは面白い 年上編


異なる観点、異なる気付き


こんばんは、わかばです。

昨日のことですが、お休みを取っておばあ様に会いにいって参りました。

おばあ様といっても血のつながりはなく、22歳になるまでは面識すらなかったのですが、私のことを孫のように可愛がって下さります。何でも女の子が珍しいのだそうで(お子様やお孫さんは全て男の子)、全てが新鮮に映るのだそう。

美術館へ行ったり、一緒に料理をした時にはいつも、

「本当の孫みたいねえ」

と微笑んでいます。おじいちゃんおばあちゃんっ子の私としては、もうそれだけで嬉しいのですが、何より楽しいのが違う世界に触れることができることです。

例えば、ご馳走になる場所。普段の私なら入らない、というよりは入れないようなお店をご存知です。昔から続くレストランや隠れ家のような喫茶店は雰囲気が独特で、窓辺の席でサラリーマンが空想に耽っていたり、マスターと脚本家が方言の違いについて議論を交わしているような空間は、まるで本の中の世界のようです。

おばあ様は、

「ここのケーキは美味しいでしょう。お友だちと一緒に来たらいいわ」

とおっしゃるけれど、友人と一緒なら確実に選ばないようなお店なんですよね。多分、大通りのカフェとかに入っちゃいます。だって、ぴーちくぱーちく話せるような空気じゃないんだもの。サイモンとガーファンクルの曲が流れているんですよ。『Scarborough Fair』で仕事の愚痴は言えないです。


youtu.be
(思い入れのある曲。友人がプレイしていた乙女ゲームの中で存在を知りました。笑)

面白いなと思う点は他にもあって、お話が上手ですよね。あの年代の方たちは。

幼少期やお若い頃の思い出話、政治や教育、歴史、自国や他国の文化、果ては宗教までーー。話題の幅が広いので、長時間聞いていてもまったく飽きないです。特に政治や世界情勢については、視点がブレないので素晴らしいなと。冷静に物事を判断しているんですよね。むだな感情を挟まないので、こちら側も聞きやすい。

そういった分野に関して、友人たちとも意見を交わすのですが、中立の立場でいるのは難しいです。感情的になったり、同意が正義であるかのような空気になったり、意見が一致したことに喜ぶあまり、偏った視点を持っていることに気付くことができなかったり。

「私たち、未熟だね」とお互いに言い合うのですが、おばあ様にはそれがないです。客観的な視点から意見を言い、異なる意見を柔らかく受けとめる。成熟した大人の姿勢です。違う思想を受け入れるって、柔軟でなければできませんからね。もしかしたら根は頑固なのかもしれませんが、それを見せないだけの余裕があります。

うん、やっぱり大人だな。私にはできないもの。

そういった方と関わっていると、一般論なんてあてにならないなというのがよく分かります。ほら、年配の方って頑ななイメージがあるでしょう。老害なんて言葉が生まれているくらいですし。ですが、実際に話してみると、そんなことはないなと感じます。少なくとも、私の周りには柔らかい方が多いです。

経験を活かして、新しい世界にも臆せず挑む。おばあ様のような女性になりたいなと思う日々です。





偏りといえば最近ちらほら見かける、「新聞やニュースをまともに見ているやつはバカだ」のような煽り。

スピリチュアル界隈でも昔からありましたが、本当に苦手です。何様なの?と言いたくなるし、それこそ偏った見方だと私は思う。
(メディアから情報を得ている=情報を鵜呑みにしている、という受け手側がバカであることが前提の論調にも浅さを感じます)

報道の仕方に疑問があるのは分かりますが、それを全否定するのはどうなのでしょうね。

「弱者の歴史を知りたければ、勝者の歴史を隅々まで学ぶこと(友人のお兄様の言葉)」をモットーとしている私としては、例えメディアが腐っていたとしても目を通しておきたいなと思ってしまいます。