綺麗すぎるのもいかがなものか
こんにちは、とうとうブログをメモ代わりに使い始めた占い師です。
夜廻シリーズ(ホラーゲーム)の新作が今月に出ると聞いて、前作、前々作の復習をしていたのですが、
「深夜廻」にコトワリサマという神様が出てくるんですね。
神様だから助けてくれるのかと思いきや、そんなことはなく。むしろ容赦なく襲いかかってくるんですよ。ボヤボヤしていると、頭からぐしゃっと潰されてしまいます。
見逃してもらうためには、あるものを差し出さなくてはならないのですが、まあ理不尽ですよね。何の罪もないのにぶつかってきて、代償が払えなければ命を奪うんですから。当たり屋も真っ青のレベルです。
でね。面白いのが、コトワリサマは人助けもするんですよ。散々追い回しておきながら、ちゃっかりヒーローとしても活躍するんです。
私はそのシーンを見て、「ああ、人間らしいな」と思いました。
「夜廻」のムカデさんや、ギリシャ神話の神々を見ても思うのですが、彼らって非常に人間臭いですよね。……え。人間はあそこまで極端ではない?本当にそうでしょうか。歴史上の人物でも、似たような話を聞きませんか。
過去に抱いた恨みを、目の前の人間に投影して傷付ける。罪滅ぼしに助ける。わけもなく嫌いになり、かと思えば、ひと目見ただけで相手を手に入れたいと願う……。
よくあることだと思います。
で、本題はここからなのですが(前置きが長い)、鬼っているでしょう。あれって、昔は神の一つの側面だったのですよ。
古の人たちは、自分たち以外の制御不可能な存在=自然を神として崇めていたわけですが、神の善行として説明がつかない部分を鬼の仕業だと思うことで理解していました(天災を神の怒りだとする場合もあります)。
それがいつの間にか、神は神、鬼は鬼と分けて考えられるようになった。
これによって、何が起こったか。感情に善悪の概念ができてしまったのです。
本来ならば、善も悪も持っているのが自然な人の姿であるのに、我々は悪のみを糾弾してしまいました。もちろん、悪を許せばこの世はめちゃくちゃになってしまいます。基本的に人を傷付けるような行為はすべきではありません。ですが、抑圧しすぎるのも考えものなのです。
抑圧しすぎるとはどういった状態なのか。それは、「悪い側面を持つということすら許されない」ことを指します。
ひと昔前のスピリチュアルがいい例ですね。
常にポジティブでいよう。ネガティブになると、それに見合った現実がやってくるから。ご機嫌な状態を保ちさえすれば、最高の未来がやってくるよ、と。鵜呑みにした人々がどうなったかは、ご存知の通りです。
で、なぜこのような話を長々と書くのかというと、今の世の中がそういった流れになってきているような気がするからなんですね。
多様性が叫ばれる一方で、我々は均一にクリーンであることを大衆にーー、そう、今ではバラバラになりつつある大衆に求められています。支持されるのは「マイノリティあるいは個性の強い、善良な人」。地味でフツーで陰湿な人間はお呼びではないわけです。
(ちょっとひねくれてるかな 笑)
光が強くなればなるほど、影も濃くなっていく。世界が美しくなればなるほど、その反動は大きなものになるでしょう。爪弾きにされた人間というのは、何をしでかすか分からないものです。
だからこそ、個々で考えることが大事なのかもしれませんね。人の流れに身を委ねるようでは生きていけない時代になりましたから。
「個人で生きていく時代」を、占い以外の観点から考えてみた。そんな記事でした。